鬼軍曹の歩いた道

帝京一筋。高校野球に捧げた50年

こんな人生、そうはない。強すぎて憎まれ、そして愛された指導者

著者 前田 三夫
ジャンル 実用・趣味
シリーズ 教育・倫理
出版年月日 2022/07/20
ISBN 9784341088156
判型・ページ数 4-6・360ページ
定価 本体1,800円+税

1995年夏、都大会での采配が物議をかもし、
甲子園では冷ややかな視線の中で戦わざるを得なかった。
そんな中で手にした夏2度目の全国優勝。

「観衆やマスコミのことを考えると、負けたほうがむしろ気が楽だと思った。
でも、すぐに考え直した。ここで負けるわけにはいかない。逃げたくないんだと。
もしも負けてしまえば、厳しい練習のすべてがただのしごきに終わってしまう。
野球が好きで、甲子園が好きで、ただそれだけで選手とともに走り続けてた自分。
だからこのとき、その自分をとにかく通そうと思った―」


まえがき

 甲子園で戦ったのは、春が34試合、夏が40試合、全部で74試合。最初が1978年の春で、最後が2 011年の夏になる。
 監督としての通算成績は、51勝23敗である。順位などどうでもいいことだが、現時点(2022年7月)で横浜(神奈川)の元監督、渡辺元智さんと並ぶ歴代5位だという。

 これらの試合でとくに印象に残るのはどれか―。

 この質問は、ことあるごとに聞かれる。でも正直、そのたびにう〜んと唸ってしまう。毎試合、それなりに思うことがあるし、当事者しか知らない舞台裏もあって順番をつけるのはとても難しい。
 それをあえて示せといわれれば、次の3試合になるだろうか。

1989 (平成元)年 第71回選手権・決勝 VS仙台育英(2―0)

 エース・吉岡雄二を中心に力のある選手がそろい、夏、念願の初優勝を飾る。春のセンバツに出場しながら初戦敗退を喫し、夏の東東京大会では直前に吉岡がケガをするというアクシデントを乗り越え、春夏連続出場を果たす。
 決勝戦の相手となったのは仙台育英(宮城)で、好投手・大越基を擁し、東北に初めて優勝旗が渡るかどうかで大きな注目を集めていた。
 試合は予想どおり投手戦となり、白熱のゲーム展開に。0—0で迎えた9回裏、2死から相手に三塁打を打たれてピンチとなるが、この場面を凌いで延長戦へと突入する。そして10回表、 1死二、三塁からセンター前へと抜ける2点タィムリーヒットが出て、これが決勝点に。帝京がついに深紅の大優勝旗を手にした。
 このとき、私はちょうど40歳。監督になってすでに17年の月日が過ぎていた。センバツでは 2度の準優勝があるが、夏は思うように勝てなかった。都大会から立ちっぱなしで采配を振り、 優勝の瞬間、泣くまいと思いながらも溢れる涙を止めることはできなかった。

2002 (平成14)年 第84回選手権・1回戦 VS中部商(11—8)

 監督30年目の年、開幕試合に初めて登場。何ともいえぬ緊張感の中で試合をし、さらに印象深かったのは相手が沖縄の中部商だったことだ。この年、沖縄県はアメリヵから日本に返還されて30年目を迎えていた。つまり私が監督になった年と、沖縄が返還された年が同年(1972年)で、そんな縁もあり思い出深い一戦となった。
 スタンドは8割がた沖縄の応援だった。エース・高市俊が投げる球が「ボール!」と判定されるたびに、ウォ〜という大声援。その波にのまれまいと、私も選手もいつも以上に気持ちを集中させて戦った。
 しかし、9―1と試合を優位に進めながら、7回にエラーや押し出しも絡んで大量7失点。 このときはスタンド全体が我々を襲ってくるようで、これが甲子園の恐ろしさだと実感した。 そのまま中部商に流れをもっていかれてもおかしくなかったが、この窮地を救ったのがレフトの吉田圭の好守備だった。追加点を許さず、11—8で無事初戦を突破することができた。
 主将・奈良隆章の群を抜くリーダーシップによって、チームー丸となった戦いも心に残る。

2006 (平成18)年 第88回選手権・準々決勝 VS智辯和歌山(12—13)

 最終回に4点差から同点に追いつき、さらに4点を奪ってこの回8点。大逆転でそのまま逃げ切れるかと思ったら、投手を使い果たしてその裏に5失点。12―13のサヨナラで敗れ去った。 でも、最後の最後まであきらめない総力戦で勝利以上につかんだものが多く、敗れはしたが、晴れやかな気分で球場を去ることができた。甲子園の名勝負の一つと評価されている。クレバーで、気持ちの熱い選手がそろっていた。

 この3試合以外にも、1983 (昭和58)年春・1回戦の池田(徳島)戦や、延長13回で敗れた2007 (平成19)年夏・準々決勝の佐賀北戦など、インパクトのある試合はいろいろある。
 しかしながら、私が思い出すのは甲子園の試合ばかりではない。どの指導者もそうだと思うが、暑さ寒さに関係なく 一年中立ち続けたグラウンドにこそ、宝といえる思い出がある。

 私が帝京高校の監督になったのは、大学卒業直前の1月。まだ大学生で、右も左もわからない若造がいきなり「甲子園に行くぞ!」と叫び、猛練習を開始。全国クラスのサッカー部と狭いグラウンドを二分して、毎日遅くまでノックバットを振り続けた。
 ところが、厳しさについてこられない部員がその後ごっそり退部してしまつたからさあ大変。先生方から睨まれ、周囲の人をみんな敵に回して孤立してしまう。挙げ句の果てに学校側から期限を決められ、「勝てなかったら即刻クビ」なる宣告を、一度のみならず二度までも受けてしまった。
 絶体絶命の場面を切り抜けられたことだけでも奇跡だが、この頃の帝京にはヤンチャな生徒山ほどいて、今思えば自由奔放、たくましさを感じさせる子どもが多かった。あるときは、入学前に暴走族の特攻服を着て私に会いにきた強者に驚かされたこともある。そんな連中とさほど年の違わない私が相まみえるには、それなりの覚悟が必要である。
 大学で万年補欠だった私が選んだのは、素の自分を出さずに常に鬼の形相で選手たちと向き合うこと。厳しさを前面に押し出し、好かれたいとか、慕われたいなどとはまったく考えなかった。もしも高校野球の監督にならなかったら、ありのままの自分でもっと楽な人生を送れたことだろう。
 しかし、縁あってこの道に入ったからには中途半端はしたくない。強く、勝てるチームをつくるために自分を封印。やがてグラウンドは選手と私との闘いの場となり、さまざまなドラマが生まれていった。そしてその先に、選手たちが行きたいと夢見る甲子園があると信じて疑わなかった。

 そんな私についてきてくれた選手たち。一方で、途中で退部し、OBとして部員名簿に名を 残せなかった選手もたくさんいた。至らぬところも多々あったが、私が苦境に立たされたときも変わらず練習に励み、助けてくれたのは目の前にいる選手たちだった。人生の半分以上の年月を注いだ指導者生活は、そんな彼らとの日々で彩られている。
 半世紀もの長い間、帝京一筋。
 でも、改めて思う。一筋で生きてこられた幸せを。思いがけず色濃い人生を歩んでこられ、かかわったすべての人たちに対し、感謝の気持ちでいっぱいである。

前田三夫(まえだみつお)

1949年6月6日、千葉県生まれ。木更津中央(現木更津総合)高―帝京大。現役時代は三塁手。甲子園出場経験はなし。帝京大学では3年時までベンチ入りが叶わず、4年のときに一塁コーチャーに抜擢され、新人監督も務める。この年の春、チームは首都大学リーグ初優勝。卒業を前にした1972年1 月、帝京高校野球部監督となる。78年第50回センバツで甲子園初出場を果たし、以降甲子園に春 14、夏12回出場。うち優勝が夏2回、春1回。準優勝が春2回。帝京高校を全国レベルの強豪に育て、全盛時は「憎らしいほど強い」と評された。リズムよく多彩な球を打ち分けるノックの名手で、前田ファンも多かった。2021年夏を最後に勇退し、名誉監督となる。プロに送り出した教え子も多数で、現役では杉谷拳士(北海道日本ハム)、原口文仁(阪神)、山﨑康晃(横浜 DeNA)ら.

まえがき

第一章 若き日の記憶

1949(昭和24)年
 実家は半農半漁。ヤンチャな前田家三男坊
1965(昭和40)年
 木更津中央高校時代。指導者になり生かされた挫折経験
1968(昭和43)年
 帝京大へ。遠いレギュラーへの道。そして覚悟を決めた。下手でもやり続ける
1972(昭和47)年
 帝京高校・監督に。指導者としての第一歩を踏み出す
1973(昭和48)年 ~1975(昭和50)年
 無名校ゆえの挑戦。「帝京」の名を売るために自腹で中学校回り
1976(昭和51)年 ~1978(昭和53)年
 第50回センバツに初出場。ついに甲子園の舞台へ
1979(昭和54)年 ~1981(昭和56)年
 センバツ準優勝の快挙と「とんねるず」石橋のいた時代
1982(昭和57)年 ~1983(昭和58)年
 またもクビ寸前。「1年以内に甲子園」を突きつけられた先に、運命の出会い
1984(昭和59)年 ~1985(昭和60)年
 センバツ2度目の準優勝。その裏で、試合前の誤報が調子を狂わす!?
1986(昭和61)年
 夏合宿で監督が消えた!? 二度と使えない奥の手で選手を鼓舞
鍛錬の場、帝京グラウンド
 道具の扱いを教え、手作りグッズで練習に工夫

第二章 帝京、全盛時代

1987(昭和62)年
 エース芝草の覚悟と、春夏連続甲子園出場
1988(昭和63)年~1989(平成元)年
 吉岡雄二を擁し、悲願の夏初優勝。全国の頂点に
1990(平成2)年~1991(平成3)年
 春夏連続甲子園出場と池田との激闘
1992(平成4)年
 エース三澤で初のセンバツ制覇。春夏連覇はならず
1993(平成5)年~1994(平成6)年
 手を焼いたヤンチャ選手。もしヤツが本気になれたなら……
1995(平成7)年
 センバツ後に起きた騒動と、その裏に隠された真実

第三章 熟考の時代。求め続けたベストな指導法

1996(平成8)年
 勝ちにこだわらないのなら、何にこだわって野球をやるのか
1997(平成9)年~1998(平成10)年
 自主性の流れに乗って、練習を選手に任せてみたが……
1999(平成11)年 ~2OO1(平成13)年
 空白の3年。指導法を模索し、単身メジャー視察へ
2002(平成14)年
 強烈な印象を残した主将・奈良。どん底からの4年ぶりの甲子園
2003(平成15)年~2005(平成17)年
 現監督・金田優哉が主将。念願の新球場完成
2004(平成16)年~2005(平成17)年
 都の3大会、優勝なしの2年間。記憶に残る上野大樹の涙
2006(平成18)年
 智辯和歌山との激闘。帝京名物「三合飯」の生みの親は主将・野口
2007(平成19)年
 2度のスクイズ失敗が響いた夏の甲子園、北佐賀との一戦
2008(平成20)年
 杉谷弟が主将の1年。当時から物おじしないイケイケ選手
2009(平成21)年
 捕手・原口で夏の甲子園ベスト8。スーパー1年生も登場
2010(平成22)年
 最後のセンバツ出場。甲子園春夏通算50勝目を挙げる
2011(平成23)年
 夏の甲子園で大谷のいた花巻東と対戦

第四章 もがき続けたラスト10年

2012(平成24)年
 大阪桐蔭が来た!そして、都ベスト4に終わった夏
2013(平成25)年
 関東大会で常総学院にやられ、較子の味もわからずじまい
2014(平成26)年
 1年生から活躍してきた選手に与えた厳しい試練
2015(平成27)年~2016(平成28)年
 ベスト8以降の厚い壁。久々に見た「本気」に希望の光
2017(平成29)年~2019(令和元)年
 強まるメンタルの課題。私の手の中に収まるな。私の思惑を覆せ
2020(令和2)年
 辛口対応でついにその気に。加田のキャプテンシーで夏を制する
2021(令和3)年
 監督室で線香の火を見つめ集中。ラストシートノック、最後の采配
2021(令和3)年晩夏

第五章 「帝京あるある」「帝京いろいろ」

常にベストメンバ—、ベストゲ—厶。温情の代打は出さない
わざと厳しいシーンをつくって挑ませる鬼の手腕
伝説となった前田ノック。リズムは一定、ロと手を同時に動かす
ノックのせいで全部入れ歯になりました
帝京、背番号一定せず
コ-チャ-を甘く見るな
立たされボウズ「タッシ—」は存在した!
「帝京五ヵ条」鉄の掟
選手に練習試合の行き先を教えない!
野球部専用バスの向かう先は、都内にあらず
マスコミの方々には大変お世話になりました
互いに「長靴の似合う男」。勝負師として背中を追った常総学院・木内監督
愛嬌ある笑いに触れることを許されなかった野球部員
やけ酒は飲まない。負けたこと、失敗を忘れてはいけない
自分の腕一本で勝負する「職人」が好きだ
公式戦ユニフォ—厶、大会前に渡すのはメンバ—だけのとき
真夏と真冬のダブル肝試し。かつては演芸大会もあった
幻のグラウンドと、2力月も過ごした電気も水道も通らぬ寮
甲子園での定宿「夕立荘」「水明荘」
本当の素顔。ノックバットをギターに変えて
実はカメラも趣味だった
案外「遊び」が好きだったんです
途中退部となったたくさんの部員たちへ
国際大会の記録
 1989(平成元)年 日米韓三国親善国際大会 韓国
 2003(平成15)年 アジアAAA野球選手権 タイ
 2018(平成30)年 東京都高野連キューバ遠征
未来の帝京野球部へ 

あとがき

帝京・前田三夫 甲子園全成績 51勝23敗

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